こんにちは。

最近はインターネトの発達により、どんな情報もすぐに入手することが可能になりましたね。

そして、どんな人でもインターネット環境があれば、自分の思っていることを世間へ向けて自由に発信できるようになりました。

情報を見極める目を持とう

情報がいくらでも手に入り、いくらでも好きなことを発信できるこの時代に、私たちに必要なのは「真実を見極める目」だと思います。

ネット上にある情報は玉石混交です。
それをしっかり理解していないと、ただただ情報に振り回されるだけの人になってしまいます。

あなたが手にした情報は、誰が書いたのか、誰が発信しているのか。

きちんと精査して真実に基づいた正確な情報を伝えようとする人もいるし、自分の思い込みや価値観が多分に反映された情報を発信する人もいます。

なるべく客観性のある情報に触れること、そしてその情報が真実か否かを見極める目を私たちは養わなくてはなりませんね。

タブーだったことには意味があるよ

同時に、今まではタブーとされていたような事柄も、オープンに語る人が増えてきたように思います。

例えば、幼少期に虐待を受けていたとか、毒親に育てられたとか、本来ならあまりオープンに語られることがなかった秘密や事柄が、ためらいなく語られることも多くなったと感じています。

社会のあり方が変わるにつれて、心のあり方や表現の仕方も変わってきて当然なのだと思います。

ですが、よくよく出来事を吟味しないうちから、まわりで流行っている言葉をなんとなく使っている人もいるかもしれませんね。

もちろん、自分の経験を昇華させて素晴らしい気づきが得られた!これをみんなに伝えていきたい!などという人もいると思います。

ですが、本来タブーとされてきた事柄というのにはやはり理由があるわけで、そう簡単に処理できるものでも割り切れるものでもないのではないかな、と思うのです。

伝えられたほうも、どう反応していいか困ってしまう・・・というのは、いつの時代も変わらないのではないでしょうか。

経験に裏打ちされた自分の感覚を信じよう

まわりからの情報を受け取ったり、もしくは自分が情報を発信するときには、私たち自身のセンサーをしっかりと働かせなくてはなりません。

このセンサーは、私たちのこれまでの人生経験に裏打ちされた「物事を見る目」ということですね。

そこに「良い・悪い」や「正しい・正しくない」というものは存在しません。
そもそも、万人にとって「良い・悪い」「正しい・正しくない」という基準などないからですね。

これは、私たちそれぞれの価値観、判断基準で良いのです。

そしてそれはみんな違っていて当然なのですね。

なぜなら、同じ人生を生きている人は一人もいないからです。

もし同じ境遇で過ごしたとしても、感じ方や物事の捉え方はそれぞれに違っているものなのです。

だから、なにが正解なんだろうか・・・などと悩む必要はありません。

そんなことで悩むよりも、自分自身の経験や、それに基づく直感や判断力を信じてあげることのほうが大切です。

そこがブレてしまうと、自分ではなにも決めることができず、まわりに流されて、ありとあらゆる情報にただ振り回されてしまう人になってしまいます。

意識を内側に向けて「芯」を持とう

だから、意識をどうか内側にむけてくださいね。

自分にとって何が必要で何が最善なのか。
答えはすべて私たちの内側にあるのですね。

誰かに答えを求めてたとしても、まわりの価値観に自分を合わせようとしたとしても。
どこかしっくりこない感覚が残るかもしれません。

その、「しっくりこない」という感覚を大事にすること。
それを無視しないでくださいね。

外側の世界にばかり意識を向けていると、自分のセンサーはまったく磨かれず、ポリシーも生まれず・・・、それでは芯のない生き方になってしまいます。

「柔軟性」があるといえば聞こえが良いですが、それとはまた違うのですね。

芯があったうえで、まわりに合わせたり妥協できたりすることが、真の意味での「柔軟性」なのかなと思います。