こんにちは。
あなたは子供の頃、家庭の中でどんなふうに育てられてきましたか?
この記事の目次
幼少期の環境は私たちに強い影響を与える
幼少期の家庭環境や教育というのは、私たちに強い影響を与えています。
私たちは、だいたい8〜9歳ぐらいまでに、物事を判断する「基準」のようなものが出来上がっていくのですが、その年齢になるまでは、脳はあらゆることをどんどん吸収していくのですね。
幼少期の脳はとても無防備で、ある意味、催眠状態に近い状態です。
良いことも悪いことも、自分の五感で感じたことすべてを、潜在意識にどんどん埋め込んでいきます。
そしてその経験や記憶の中から、「このような場合にはこうした方がいいのだろうな」とか「これは危ないからしてはいけないんだろうな」などと、私たち個人個人の「判断基準」が作られていきます。
同時に、私たちが自分自身に抱く「自己肯定感」といわれるものも形成されていくのですが、みなさんは自分に対する肯定感は高いですか?低いですか?
私たちは本来、何もしなくても愛される価値がある
「自己肯定感」とは、どんな自分に対してもOKと言える、という感覚ですね。
たとえ仕事がなくても、お金がなくても、友達がいなくても、「私はこれでOKなのだ!」という感覚です。
ちょっと例えが極端になってしまいましたが・・・(^_^;)
言い換えると、
「たとえ何もしなくても、何も持っていなくても、私は愛されるに足る存在であると思える」という感覚なんですね。
私たちは本来、何かができるから、何かを持っているから、何かを与えるから愛されているわけではなくて、存在そのものが愛に値するのですね。
生まれたばかりの赤ちゃんは、その存在だけで、まわりの人を幸せな気持ちにしますよね?
特別に何かをしなくても、十分に愛される存在ですよね?
生きているだけでまわりを幸せにする存在ですよね?
私たちも、昔は同じように赤ちゃんだったんですよね。同じようにまわりを幸せな気持ちにして、十分に愛されていた存在なのです。
でも、私たちは成長するにつれて、いろいろな条件をつけるようになってしまうんですね。
「お母さんの言うことを聞いたから良い子」
「お手伝いをぜんぜんしないから役に立たない子」
「勉強ができないからダメな子」
「テストで良い点数をとったから自慢の子」
そんなふうにして、育つ過程において、いろんな条件を植えつけられていきます。
そしていつの間にか、お手伝いをしたり、良い成績をとったりしないと、親からの愛を受け取れないような感覚に陥ってしまうのですね。
愛に条件はない
でも、本来はそんなことはないのですね。
親は私たちのことを、何かと引き換えにして愛しているわけではないのです。
同様に、私たちも親のことを、何かをしてくれるから、何かをくれるから愛している、というわけではないですよね。
ただ、親も完璧な人間ではないのでね。
表現方法が未熟だったり、接し方が雑だったり、感情を子供にぶつけてしまったりするのですね。
その結果、誤解や錯覚が生まれてしまった、というだけのことなのです。
でも、幼少期に、そうやって潜在意識に埋め込まれてしまった記憶や感覚は、私たちの頭や心を支配して、その後の人生に影響を及ぼしていくのですね。
だから、とても責任重大ではあるのですが、それもまた親子の、家族の学びなんですね。
自分の中から真実の答えを導き出して
幼少期に埋め込まれた条件付けに気づかないで生きていると、自己肯定感はいつまでたっても低いままになってしまいます。
もし条件をクリアできなかった場合、そんな自分にダメ出ししてしまうんですね。
そうなると、悪循環です。
いつまでたっても自分を認めることができなくなってしまいます。
私たちは、まわりの言うことを聞くから、誰かの役にたつから、仕事ができるから、良い成績を収めるから、価値があるわけではないのです!
そのことに気づいてくださいね。
そして、自分の心が本当は何を望んでいるのか、何を求めているのか、どうしたいのか、そこにフォーカスするようにしてください。
なにも制限や条件がないのならどうするのか。
常に、その状態を想定して、いろいろなことを考えてみてくださいね。
そこから出てきた答えが、真実の答えなのです❣
ただの雑感です。
人生学校のたくさんの体験…
いずれは親から離れる。学校そして社会に旅立つ。
私たちの人生っていいこともあるが、嫌な思いもたくさんある。悔しくて腹が立ったり、自分に務まるのか?不安や責任感で押しつぶされそうになったり、大恥かいて嫌悪感感じたり…私はいい思い出より、不快なことの方がずっと多いです。馬鹿だなと思いますが、でも自分らしいなと思います。逆説的ですが。
取り合えず、生きるためには、食っていかないとならない。
自暴自棄になりながら、悲しみながら、嫌気がさしながら、「食っていかないと」・・・それだけで否応なしに生きるすべを自分で身に着ける。
場数を踏んで、「清濁併せ呑む」。世の中はきれいではない。
体験する数だけ何かを手に入れているから、一見同じことの繰り返しでもいいのかもしれません。
過去のつらい体験も時の経過とともに書き換えられる。その時はわからないでじたばたしていますが。それでいいんでしょう。
>ジェミニさま
コメントありがとうございます!
自立して食べていけるようになることが、私たち人間の共通の課題でありテーマですよね。
その上で、自分の経験を世の中のために活かせるのなら、そんなに素晴らしいことはないと思います。
私たちが経験することは、どんなこともすべて、必要だからしているのだと捉えることができたなら、
新たな視点が開けてたくさんの気づきがやってくるのでしょうね。